共有地としての言葉―仲俣暁生



※inflorescencia=inf.  仲俣暁生氏=仲俣 ced氏に関しては雑記帳をご覧ください。



書籍の全体性と相互参照性

仲俣 あと、紙の本の最大の長所は、逆説的だけど、コメントやトラックバックのような反射的な意見に、その都度応答しなくてもいいことかもしれません。

inf. そうですよね、言いっぱなしで良いっていうのは楽ですよね(笑)

仲俣 少なくとも、ブログみたいに短いスパンでいちいち反論しなくていいですからね。本を構成するテキストというのは、ある複雑な構造をもっているわけで、理解や同意を得られるかどうかは別としても、まずはとりあえず最後まで黙って読め、という強制的な装置でもある。もちろん、本の一字一句ごとにツッコミを入れながら読んだ読者もいるだろうけど、本の余白に書き込まれる程度で、そのプロセスは基本的には公開されないわけですよ。

inf. そうですね。

仲俣 だから、当座は紙の本のほうが著者は安心ともいえるわけです。でも、今後アマゾンのサービスなどが日本でももっと本格化して、ネット上に多くの本のテキストが公開されるようになった場合、それこそ、読者がその一字一句につっこみを入れることが可能になる。
 これは書き手にとってはちょっと恐いことかもしれない。単純な誤植もあるだろうし、どんな本でも、多少は間違いがあるに決まっている。それを指摘されること自体はよいことだけど、次の版が出ないと紙の本では直せないのに、amazon上の本文では直っていたりすると、「あいつ、amazonではこっそり直してるよ!」というようなイジワルな反応もあったりして(笑)。

一同 ははは!

仲俣 まあ、それは冗談としても、このあたりが紙の本とネットとが向かう、次のフェイズかな、と思うんです。

inf. なるほど。

ced えっと、みすず書房から出ていた『出版と知のメディア論―エディターシップの歴史と再生 』という本があって。

仲俣 読みました。長谷川一さんの本ですね。

ced はい。彼が確か書籍の全体性という話を最後の方でしていて、人文書は全体性があってはじめて成り立つと。で、先ほどの本の一行一行にレスを入れるというのと、全体としてレスを入れるっていうのはたぶん違っていて。人文書のもっている全体性に対してレスを入れるっていうのが、たぶん著者が求めていることであって、一行一行にレスを入れらてしまうっていうのは全体性を理解していないなかで入れられてしまうと、どうしても的外れになってしまう。

inf. 全体性って言うのはその本の持っている文脈みたいなもの?

仲俣 それもあるし、もっと広くとれば、一冊ではなく複数の本がつくる世界や、学術世界の全体における文脈みたいなものもあるでしょう。

inf. あー。なるほど、全体で醸成している価値観みたいなものということですね。

仲俣 僕の場合も、そういう感覚が肌身に沁みてわかったのは、インターネットのおかげなんです。専門学校や大学でときおり授業をすることがあるんですが、そのときによく言うのが、「本」といったとき、それを「一冊の本」だと考えてはダメだ、ということなんです。
 たとえばテレビを考えてみても、自分の家にあるテレビの受信機だけを見て、「これがテレビだ」と思ったら間違いで、当たり前だけど、放送ネットワークがあってはじめて、多くの人が同じものを見ることが可能になる。ここにある機械はあくまでも「テレビ受信機」であって、「テレビジョン」というメディアそのものじゃない。大量生産される紙の本も、いわば「本」というシステムの受信機みたいなものでしょう。だから、「本」と言ったとき、そのことを考えていかないと間違える。
 書かれた本の中身だって、とりわけアカデミックな本ではそうですよね。「巨人の肩に乗って」という表現があるけれど、どんな研究もかならず先行研究の上にのっているわけです。文学の世界だってそうだし、ジャーナリズムでもある意味ではそうでしょう。むしろ紙の本の方が、デジタルなテキストより、歴史的な蓄積や、テキスト間での相互依存の度合いが高いともいえる。
 紙の本というのはたしかに、見た目は単体の本だけど、誰だって実は、かつて本を読んだ経験から本を書いているわけです。誤解を恐れず言えば、一冊の本を書き上げることができる人というのは、一冊の本として「本」とつきあうのではなくて、「集合体としての本」という構造をきちんと読み解くリテラシーが高い人、ということになると思うんです。
 
inf. つまり本という機能上の制約というか属性から相互参照性が高まっているというわけじゃなくて、書いている人のリテラシーが高いからだと?

仲俣 そう思います。紙の本を書くチャンスをもらえた人というのは、基本的に、本を書く以前からなんらかの文化的な蓄積があったり、立場上、そうしたリソースにアクセスすることが可能だった人が多いですよね。

inf. はい。

仲俣 でも、そういう集合体としての「本」を参照したり、引用したりすることは、ブログや2ちゃんねるでは、基本的にあまり必要とされない行為なわけです。もちろん、いちいち丁寧に原典にあたってもいいけれど、たんに今この瞬間のこのことに反応したいがために、いちいち本を開いて、過去にこのことについて誰がどう言ってたっけ、っていう作業は、普通の人はやらないわけですよ。
 でも、多少なりと出版だとかメディアの仕事に関わっちゃった人間は、ついそれをやりたくなる。そういう人が、ブログや2ちゃんねるにも、少しはいます。僕もたとえば「EPIC2014」についてのブログを途中まで書いてて、できたらすぐアップロードしたいのに、「えーと、これって元ネタはディケンズだよな、きっと全文テキストがどこかにあるはず…」とか、ついやっちゃうわけですよ(笑)

ced ははは!

inf. わかります、わかります(笑)

仲俣 そういう点で、ネット上のテキストの公共性を少しは高めている部分はあるかもしれないけれど、でもそうは言っても紙の雑誌に原稿を書くときほどは、ちゃんとは調べたりウラをとったりはできないわけです。それに、編集者や校閲の人がいてくれるわけでもないから、間違いがあれっても、事前にはチェックできないわけで。

inf. んー。

仲俣 うまく質問の答えになっているかどうか分からないけど、そんな感じですね。



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