共有地としての言葉―仲俣暁生



※inflorescencia=inf.  仲俣暁生氏=仲俣 ced氏に関しては雑記帳をご覧ください。



これからの編集者

仲俣 そうなるとなおさら、「編集者ってなにやればいいの?」という問題は、ものすごくあるわけですよ!(笑)

inf. そうすると、残るのはパッケージングしか、抽出を含めたパッケージングしかないのではないかって。

仲俣 商品化能力、つまりプロデューサー的な能力ですね。

inf. そう、広告みたいな感じでしかないのかなって思って。

仲俣 優秀なプロデューサーが必要なんですよ。エディットの機能は、読者のほうが持ってしまった。もっと言うと、書き手や作り手のなかにかなりの編集能力がある時代になった。著作が最初からきちんと編集されていたり、読む方もばらばらなものを自分で編集して読めるようになったときに、編集者が示す「唯一この配列で」という配列が、著者や読者の編集能力より強ければ、「さすが! やっぱりこの配列だよね」となる。でも、そこまでのエディトリアルな機能を今の編集者はもっているかって言ったら、ないと僕は思うんですね。というより、編集者の仕事がそちらのほうを志向していない。

inf. んー。

仲俣 なにも編集されていないものが、Googleの検索結果みたいに配列されたり、ネットのまとめサイトみたいな編集だけで良いのかって言ったら、「そうじゃない、俺はこう編む」という編集者魂みたいなものをもった人がいていいはずだと思うけど、そういう編集行為そのものが、ネットが出てきたことでかなり相対化されちゃっている。そうやって考えていくと、編集者だけでなく、出版社っていう存在も、長期的にはかなり微妙ですね。

inf. はい(笑)

仲俣 放送メディアであれば電波という限られたリソースがあるから、明瞭に既得権が見えやすい。でも、出版の場合にはそういう意味での既得権はあまりない。かなりクリティカルな状況にあるはずなのに、いまだに出版社が揺るぎなく見えるのはなぜ? という疑問はあって、そこがちょっとわかりにくい。ひとつには取次、つまり流通システムの問題が一方ではあるけれど、それだけではない気がするんです。

inf. おー。

仲俣 日本にはまだ、インターネットなんて見ないけど、本は読むという人が多いんじゃないでしょうか。インターネットユーザーがついに何千万人とか言うけれど、そのほとんどは携帯ユーザーでしょう? つまり、ブログや掲示板を、紙の本や雑誌を読むのと同じくらい本気で読む人の率は、まだ本を読む人より全然少ないんです。

inf. 確かに。

仲俣 そこがひっくり返るときがいつくるか。さっき言ったAmazonやGoogleがやっている本のハードコピーと同じように、紙の本とまったく同じものがネット上でほぼ手に入る時代が来たときに、出版社がどうなっているかに僕は関心があるんです。そうなったら、出版社の編集者は何をやったらいいんだろう。やっぱり、AmazonやGoogleに就職するのかなあ(笑)

ced そこでコメントを書くと(笑)

仲俣 (笑)



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