共有地としての言葉―仲俣暁生



※inflorescencia=inf.  仲俣暁生氏=仲俣 ced氏に関しては雑記帳をご覧ください。



権威じゃないことの権威と設計

inf. プロデューサー……フィルターというか権威、オーソリティーみたいな人だけは残るんじゃないかっていうのは?

仲俣 いわゆる「スーパー・エディター」みたいな人のことをイメージしていますか?

inf. そうです。これが良いってちゃんと言って、皆が「あー」って言って納得できるような。

仲俣 たとえば「本屋大賞」っていうのは、すでにある意味で権威――「権威じゃないことの権威」になっているかもしれない。一般の書店員が選ぶからといって、それがただちに「俗情との結託」だということにはならないと思うけど、あの賞は本好きの人たちのある種の感覚をすくい取ってることは間違いないでしょう。

inf. 同じ目線に立って、ということでしょうか。

仲俣 「読者と同じ目線に立っている」ということが、一種の権威を発生させる装置になる時代なんですよ。

inf. でも、ちょっと詳しい、みたいな。

仲俣 そう(笑)。自分のことを「専門家」でも「職業的な編集者」でも「作家」でもなくて、あくまでも一読者の代表、アマチュア代表と位置づけると同時に、本当に読めてないやつとは違って、自分たちはある種の「フィルター」になってますよ、という「本屋大賞」的な感覚っていうのは、インターネットのブログなんかにもあるでしょう? だけど、じゃあ「人文書の本屋大賞」ってありうるのか、という問題もあるわけです。

inf. うーん……。

仲俣 そもそも「人文書の本屋大賞」というものがあった方がいいのかどうか。「本屋大賞」的な評価システムはもちろん万能じゃない。逆に、一人の人格が全責任を負って、この本はよい、と評価を下すシステムとして「ドゥマゴ文学賞」とか「大江健三郎賞」とか小説の世界にはあるけれど、それを人文書のような世界で機能させるのは難しいでしょう。
 たくさん本があるなかで、この本がいいよ、ということを伝えるフィルター機能を、ブログ的に個々人が自発的にやって、そのプロセス自体も公開されていて、じわじわとブックマークが増えていくことで大勢の人に読まれていく、みたいなことが理想だとしたら、それを実現する制度やアーキテクチャの設計をどうするか、ということが問題になりますね。
 それこそGLOCOMのisedで、東浩紀さんを中心にエンジニアや社会学者の人たちがやっていたのがその問題です。isedで「設計研」と「倫理研」とに分かれて議論していたとおり、設計の問題は大きい。今後、「編集」についてちゃんと考えようと思ったら、おおもとのアーキテクチャの設計から入らなくちゃならないと思うんです。



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