共有地としての言葉―仲俣暁生
※inflorescencia=inf. 仲俣暁生氏=仲俣 ced氏に関しては雑記帳をご覧ください。
プロの編集者に残されているもの
ced 本以外のところでエディターシップを考えるときは、外山滋比古の『エディターシップ』って本がみすず書房から昔から出ていて、あれが自分の中では念頭にあったのですが。
仲俣 はい。
ced あれはネットがない時代に書かれた本で、今の話を考慮するとほとんどそれが消えてしまうんですね。選択に関しても。だからさっき3つあった……。
仲俣 選択、配列、パッケージ、ですね。
ced まあ彼は、選択して配列してそれをうまくパッケージングできるような人材がこれからのエディターシップとして必要で、人はみな生まれながらにしてエディターであるみたいなことを言ってるんですけど。結果的に幸か不幸かインターネットによってそれが誰しも出来るようになってしまって、そうすると、じゃあ編集者がエディターシップを持っていて、それだけが特権化されるのかっていうとそうでもない。
仲俣 そのとおりです。
inf. ただそのはてなブックマークというのを見ていると、またyomoyomoさんが仰ったことなんですけど、diggとかと比べると関心の領域が違うから、はてブだと非モテとか文化系女子とかが200ユーザーとか100ユーザーとかを集めてしまう。あるいははてなブックマークに関するエントリーもそう。関心領域が違うから結局それによって、差がついてくるように見えると仰っていて。私はそれをリテラシーの差だと感じたんですよ。で、それは構造上の問題化と思いきや、関心が違うからだとyomoyomoさんに言われて、そうなのか、どっちなんだろうなって思ったんですけど。
diggは対話が出来る。コメント欄が自分のコメントだけじゃなくて他の人がどういうコメントをつけているかとかも見れて、その上でコメントをつけたりだとかタグをつけたりしている。はてブはそうじゃないですよね。はてなブックマークは自分のコメント欄だけが見える。一応おすすめのタグとかありますけど。そういう設計上の問題なのか、それともただ単に関心の違いという問題なのかと。
仲俣 もちろん、設計だけでなくて、ユーザーの側の問題と両方あるでしょうね。「はてなブックマーク」が設計上、そこまでの機能に留めている理由も、なんとなくわかるし。
inf. そうですね。その方が使いやすいというのはありますね。
仲俣 対話型にしたら、なにが起こるかわからないですからね。というより、わかりすぎる(笑)。
inf. 炎上しますね(笑)
仲俣 と同時に、やっぱり「はてなブックマーク」を使っている人は、やっぱり「はてなユーザー」が多いわけで、そうじゃない人は、あの「B!」のマークがよくわからない。そうすると、「はてなブックマーク」の使われ方は、はてなのユーザーコミュニティがもっている性格を、ある程度、反映することになる。でもそれって、まさに昔の出版社ってものが持っていたものにちょっと似ているんですよ。
inf. 社風みたいなものですか。
仲俣 むしろ読者の共同体。たとえば、みすず書房の本を読むのはこんな人、という。でも、そういう共同体は、今はほとんどないでしょう。みすず書房だっていまは一般書に近い本も出している。新潮社みたいに総合出版社になれば、なおさらレーベルカラーみたいなものを出すのが難しくなってくる。岩波書店だって、いまや全部の本を「岩波色」に染めるっていうわけにはいかないでしょう。でも、だからといってそれらの出版社がダメだかとか、職業編集者がダメだ、ということでは全然なくて……。
inf. いや、そっちの方がむしろ……。例えばアルファ・ブックマーカーとかいるじゃないですか。人は結局誰かに頼らないと、自分が良いなって思える人にフィルタリングしてもらわないと。そんなにコストはかけられないんですよ。そういう意味で編集者は残るのだろうけれど、あり方は変わるだろうなと思って。で、何が残るだろうなと。
仲俣 専業の編集者の最大のメリットは、本を読むことが仕事である、ということですね。
inf. それは研究者と変わらないですよね。
仲俣 仕事なんだから、アマチュアに負けないで欲しい、ということもふくめてね(笑)。ただ、いまの編集者は忙しすぎてじっくり本も読めない、あるいは満足に本を買えない、という状況だと思うんです。大手はともかく、小さいところだと、本をたくさん買えるほどの給料は貰えず、読むだけの時間もなく、とにかく目前の売上を稼がなきゃいけない。そうなると、民間のアマチュア読者の方が上手になる。もともと本を好きで読んでるわけだし、好きで読むからみっちり読むし、しつこく考えるでしょう(笑)。仕事ではない以上。時間も無尽蔵にかけられるわけで、そうなると読者のほうの編集力が高まってくるわけですよ、少なくともあるジャンルにおいては。
inf. はい。
仲俣 そういう状況にあることは間違いない一方で、最初に話をした「新書」の世界なんかは、もうすこしわかりやすい世界なわけですよ。新書って、トピックの選び方がやっぱり、ネット上の話題からはちょっと遅れて出てくるでしょう。あまり遅れずにタイミングよく出てきたりすると、「おーっ、いい本が出たじゃん」って思うわけで。
inf. 「あ、早いねー」とか(笑)
仲俣 さすが、出版社も見るところをみていて、ちゃんと作ったんだね、っていう。そういう風にとらえる読者がいるとしたら、そこにはある種の「公共圏」があるのかもしれない。その公共圏には、ネットと本の両方が含まれている。そういうことに意識的な編集者も最近は出てきているから、そこに期待したい、というのがひとつある一方で、いまは雑誌っていうのが本当に機能しなくなっていると思うんです。
さっきの選別、配列、パッケージっていう点では、書籍よりも雑誌のほうがずっと早く、ネットに負けていくことになる。
inf. はい、それは着実に。
仲俣 書籍の場合、長くて厚い本になればなるほど、選別、配列、パッケージということの持つ意味が強くなっていくでしょう。小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉』は、まさにテキストを選別して、配列して、パッケージして、という方法で書かれた本だけど、小熊さんはちゃんと、数年に一冊出ればきちんと機能するように作ってますよね。
雑誌より、いまは書物の編集が面白い気がしているんです。雑誌なんてなくても、単行本とネットがそれぞれきちんと機能すれば、その共存関係が良い方にまわっていくんじゃないか。出版業界という狭い意味ではなく、読者やネットの世界までを含めた公共圏というか、本の生態系というのは、いまだってそんなに不健全じゃないと思うんですよ。
inf. はい。