共有地としての言葉―仲俣暁生



※inflorescencia=inf.  仲俣暁生氏=仲俣 ced氏に関しては雑記帳をご覧ください。



書き込みの系譜

仲俣 だけど、そう考えると紙の本だって、昔は似たようなものだったんですよね。まだネットがない時代、とくに書物の黄金時代というか、「消費財」化が進む前の本の方が、いまみたいに消費財化が進んだ後の本よりも、おそらく余白の書き込みっていうのが多かったと思うんですよ。本に線引いたり、何か自分の意見を書いたり。太い傍線を引いて、欄外に「断じて否」とか(笑)。

inf. はははは!

仲俣 あれってブログのコメントと一緒ですよね。「この著者はこう言っているが、俺には許せん」という。いまも古本屋に行くと、たまにありますよね、昔の人がたくさん書き込みをした本が。でも今は、本というのは要らなくなったらブックオフに売るものになっちゃったから、書き込みされない。本というのはそこに書き込みして良い空間、今のブログやなんかと似たような一種の「公共空間」だったのだろうけど、だんだんその意識が無くなって、私有財産になっていった。だけど人間がやっていることって、結局ほとんど同じなんですね。僕も古本屋なんかでたまに書き込みのある本を買うことがありますけど、その欄外の書き込みって、たいがい的外れだったりする(笑)。

inf. ふふ(笑)

仲俣 ようするに、非常にプライベートな思いに満ちていたりするんだけど、でも、それを誰も他の人が読まないわけじゃない、というのが不思議なもので。たとえば書き込みのある本が世の中を漂流していって、「断じて否!」「俺もだ!」「俺もだ!」「俺もだ!」……ってなるような、いわば本当にソーシャルブックマーク化した『国家の品格』とかが世間をまわって、本のにいろんな意見が付いていくようなことがあったら、それはそれで面白いと思うけど。

ced 昔、白田先生が大学の授業でそういう話をしていまして。イギリスの大学の図書館の本っていうのは、代々その本を読んでコメントをした人の書き込みで埋まっているという。それを読むことで、それまでその本がどう読まれてきたかわかる。だから洋書には余白の欄が大きいんだ、と。

仲俣 そうだと思いますよ。余白って、本当に書き込みのためのスペースだからね。で、まあちょっとこれは話がズレちゃうかもしれないけれども、近代以降の本の特徴である「著者」、つまりオーサーの発生っていうのは、余白のコメント欄と関係があるっていう説がある。聖書の書写生が写本を作る過程で、手写しだから必ず書き間違いや、あるいは勘違いによる誤写が起こる。で、流布していく写本のなかに間違いが多くなってくると、それをチェックする文献学者が必要になってきて、本の余白に「ここは誤りである」とコメントをつけるわけ。あるいは、本当に自分の違った解釈を主張するような人も出てくる。

inf. なるほど。

仲俣 で、そうやって余白の書き込みが増えていくと、これはちょっとうろ覚えで、ちゃんと確認したほうがいいんですが、とにかく本文より余白の書き込みの方が多い本、というのができるわけですよ。

inf. はい。

仲俣 で、著者、オーサーっていう存在というのは、欄外の書き込みの量が、オリジナルのテキストよりも増えたときに発生した、という書物史的な理解がある。同じことが言えるとすると、ブログのコメント欄の書き込みの量が本文を凌駕して、ある論理性と構造と複雑さをもったときに、その人はようやく「著者」になるわけですよ。

inf. なるほど。

仲俣 そうなれば面白いけど、いまのブログのコメント欄じゃ、全然スペース足りないですよね。





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