共有地としての言葉―仲俣暁生



※inflorescencia=inf.  仲俣暁生氏=仲俣 ced氏に関しては雑記帳をご覧ください。



公共性とは?

仲俣 どっちにしろ日本人にとっては縁遠い言葉だけど、「公共性」という語が本来持っている意味って、よく言われがちな「社会全体のことを考えましょう」っていうのとは違うと思うんです。だって、二人の間でだけで成り立つ「公共性」ってことだってあるだろうし。

inf. そうですね。

仲俣 そういう意味で言うと、即座に応答できる仕組みの方が公共性が育つ、とは限らない。100年前の本を読んだ人が、100年後にまた別の人が読んで……というのは大げさだけど、リアルタイムでなくてもそこに何かが生まれることはある。たとえば本居宣長古事記源氏物語について書くことで、ある意味で「公共性」について考えたのかもしれない。このあいだ出したインタビュー集の最後に堀江敏幸さんの文章を引用したんですけど、彼はジョルジュ・ペロスというすでに死んでいる作家との間で「死後の友情」に恵まれた、という感動的な書き方をしてる。
 唐突だけど、「友情」っていうのは「公共性」にちょっと近いかな、と僕は思っていて。愛情は私的な感情だけど、友情っていうのはもっと広い…。

inf. そう……。公文先生は「公」と「共」っていうのは違うと。で、1対1とかのは「共」で、「公」というのはパブリックだということを仰っていて。確かにそういう2人で練り上げる、3人4人で練り上げるものはありますよね。

仲俣 共和国っていうのはリパブリックでしょ。フランス革命の三色旗っていうのは誰でも知っている「自由、平等、友愛」の象徴で、自由と平等は日本でもよく議論されるけど、友情の話が抜けている。でも公共性の話って、それがないことには始まらないと思うんですよね。


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